マタイ25:31~46
31 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
32 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、
33 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べ物を与え、わたしが渇いていたときに、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったときに、わたしに宿を貸し、
36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
41 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。
42 おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、
43 わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』
44 そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』
45 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』
46 こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」
サッカーのワールドカップ大会が南アメリカのブラジルで開催され、熱戦が繰り広げられています。大会初日の第一戦は、開催国のブラジル対ヨーロッパのクロアチアとの戦いでした。ブラジルは今までのワールドカップ大会で優勝回数が一番多く、今回はネイマール選手を柱として優勝を期待されていますが、この試合でチームや選手のこと以外で話題となっていたのは審判団でした。日本から初めて、主審を始め三人の人たちがこの開幕戦に審判として出場なさったのでした。私もこのことを、試合の行われる数日前に知りましたので、日本の審判がどのようにジャッジなさるのか期待して、チームの戦いとは別の感覚で試合を観ていました。一対一で迎えた後半戦で、ブラジルがクロアチアのペナルティーエリアでの攻撃中に、クロアチアの選手がブラジルの選手の両肩を引っ張ったためにブラジルの選手がよろけてしまってシュートできなくなってしまいました。その時、即座に日本人の主審の西村さんがホイッスルを吹いて、クロアチアの選手にファールを宣告してブラジルチームにペナルティーキックの権限を与えたのでした。そのとたんにクロアチアの選手たちが審判の西村さんに一斉にくいかかって抗議しました。でも西村主審は、しっかりと自分の目でクロアチアの選手がファールしたのを見たという厳しい表情で、ファールのした選手をまっすぐ指差して、クロアチアの選手たちの抗議に対して動揺の姿も全く見せずに試合を進めて行きました。結局、このペナルティーキックではネイマール選手がゴールを決めて、更に終了間際にもブラジルが追加点をとって、3対1でブラジルが勝利しました。私は、西村主審はよく選手たちの動きを観察していたな~! と感心したのですが、この試合の後から各メディアでこの場面のことが話題となり、ブラジルの選手がファールを装うために、自分から地面に倒れたのではないかという仮説も広がりました。そして、その時の審判の判定が正しかったのかどうかという議論がなされ続けています。あるメディアによると、イングランドのリーグであったら、あれくらいのファールはファールと認めずにそのまま試合を続行していたであろうとか、またある元ワールドカップのフランス人の審判によると、ブラジルの選手がファールを誘いこんだので、ブラジルの方にファールを与えるべきであったという記事を見ました。ある統計によると、西村主審の判断が正しかったと思う人は55%ほどで、間違っていたと思う人は30%くらいだったようです。
このように、人によって裁かれる審判は100%正しいとは言えないこともあるのです。ですから、今回のワールドカップサッカー大会からは、特に大事なゴールに関して、ゴールにボールが入ったかどうかを瞬時にモニターカメラを通してチェックできるようにしたようです。よって、ゴールしていなかったようにみえても、モニターをチェックしてゴールを認められたり、逆にゴールしているように見えても、本当はゴールではなくて取り消されたりすることもあるみたいです。それはゴールラインテクノロジー(GLT)と呼ばれる技術のようで、すでにフランスのチームがこのシステムを通して得点が与えられたそうです。相撲の審判においても、行司の判定が正しくなかったも知れないと思われたら、物違がついて審判団どうして協議を行い、再び取り組みをさせたり、逆に初めは負けとされた力士に軍配が上げられたりすることもあります。相撲の審判もたいへん難しい時もあります。審判の判定が100%正しく行われるとは限らないのです。
しかし、神様の審判は正しく行われます。なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。(2コリ5:10) 私たちが生きている間に行った行為によって、正しくイエス・キリストによって裁かれます。つまり、私たちがイエス・キリストを信じないで自分勝手気ままに生きて来たのか、それともイエス・キリストを自分の救い主であると信じ、悔い改め、御言葉を実践して生きて来たかによって、正しく裁かれます。神様の審判はスポーツや裁判の審判と違って、抗議や物違によってくつがえされることがありません。100%正しく審判されるのです。『イエス様!私は生きている間、神様に忠実にまじめに生きてきました。』と告白しても、神様の御心に合う人生を歩んで来たか、そうでなかったかは、神様がすべてご存知なのです。神様には偽ることができません。 わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ。主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(マタイ7:21~23) 神様の審判によって天の御国に入れる人は、『主よ! 主よ!』と言う者でもなく、イエスの名によって予言をするものでもなく、悪霊を追い出したりするものでもなく、奇跡をたくさん行う者でもないのです。ただ、天の御心を行う者だけが天の御国へ入ることができるのです。
マタイの福音書の25章では、栄光の位に着いた人の子、王であるイエスが、すべての国々の民たちが神の御前に集められて、羊飼いが羊と山羊とを分けるように人々を、羊を右に、山羊を左により分けて置くと言っています。そして、その王であるイエスは右に置いた人たちに、『さあ、私の父に祝福された人たち。あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であった時、私に食べるものを与え、私が渇いていた時、私に飲ませ、私が旅人であった時、私に宿を貸し、私が裸の時、私に着る物を与え、私が病気をした時、私を見舞い、私が牢にいた時、私を尋ねてくれたからです。』と言うと、その正しい人たちがイエス様に答えます。『主よ。私たちがいつそのように、あなたを助けてあげたのですか?』すると、イエスはこのように答えます。『あなたがたが、これらの私の兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』それから、イエスはまた、その左にいる人たちに向かって言います。『呪われた者ども。私から離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ!お前たちは、わたしが空腹であった時、食べるものをくれず、私が渇いていた時にも飲ませず、私が旅人であった時にも泊まらせず、私が裸であった時にも、着る物をくれず、私が病気をした時や、私が牢にいた時にも私を尋ねてくれなかった。』その時、彼らは答えます。『主よ。いつ、私たちはそのようにあなたを助けたり、世話をしたりしなかったのでしょうか?』するとイエスは彼らに答えるのです。『お前たちが、この最も小さな者たちの一人にしなかったのは、私にしなかったのです。』そのように言われ、これらの人たちは永遠の刑罰に入ってしまい、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。(マタイ25:31~46)
神様の審判は絶対的な権威があって恐ろしいものです。最後の審判で地獄に行くと宣告されても、もうそれをくつがえすことはできません。神様の審判は正しく絶対的な審判なのです。人間の審判は揺れ動くこともありますが、神様の審判は決して揺り動くことはありません。そして、その審判はすべての人たちの人生の最後に平等に行われるのです。今までスポーツ競技のしたことのない人であっても、また今まで裁判を受けたことの経験のない人であっても、どんな人でも自分の人生の最後には人生の審判を受けるようになるのです。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。(ローマ14:10) この最後の審判によって、私たちは永遠に生きるのか、それとも地獄に行くのかが決められるのです。私たちは、この最後の審判で必ず勝利をしなければいけません。この最後の審判で負けるなら、スポーツの世界の敗北とは次元が全然違い、永遠に燃える硫黄の火の池のある地獄へ行き、永遠に苦しむことになるのです。私たちはそんな永遠の苦しみを受けないために、最後の審判を悠々と通過して、永遠の天国へと向かう準備をしなければいけないのであります。 使徒パウロは、正しい審判者であられる主イエス・キリストにより、もはや義の栄冠が自分のために用意されているだけである(2テモテ4:8)と告白しました。パウロのように最後の審判をいつ受けてもいいようにイエス様を土台とした信仰生活を送り、義の栄冠を与えられる夢と希望を抱いて生きられるみなさんでありますよう主の御名でお祈りします。
少し前に、ある殺人事件の犯人として疑われて逮捕され、牢屋に何十年も入れられてしまっておられた方が、何十年ぶりに無罪が確定して釈放されたニュースが話題になりました。この事件において、警察や裁判官の誤った審判によって、罪のない人が人生の48年もの長い年月を暗い牢獄の中で暮らすよう強いられてしまったのです。重大な事件を扱う審判は、このように人の一生を棒に振ってしまうほど大きく左右してしまうので本当に慎重に行わなければなりません。しかし、人の行う審判ですのでどんな時でも100%正しいとは言えませんし、あってはいけないのですが、誤ることもあります。しかし、いくら人間の審判に間違いがあるといっても、濡れ衣を着せられ牢獄で多くの歳月を暮らすよう強いられたこの方の人生は二度と戻すことができません。冤罪の被害者の方の貴重な人生を、これから主が導かれ守ってくださいますように願ってやまないところです。ところで、私たちが一番恐れなければならないものを、イエス様は教えてくださいました。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。(ルカ12:5) 私たち誰にでも訪れてくる最後の審判をなさる方、地獄に落とす権威をもっておられる方、イエス様を私たちは一番恐れなければいけないのです。この世のなかに於ける審判は永遠の裁きではないのです。永遠の裁きは私たちの人生の最後に誰にでもやって来ます。そして、誰でもイエス様によって永遠の天国に行くか、永遠の地獄に行くか審判されるのです。私たちの主、イエス・キリストは永遠の審判者であるのです。私たちは、永遠の裁き主でおられるイエス・キリストの前で、いつも悔い改め、全ての罪を十字架の血潮で洗い清め、神様の前に正しく立てるようになって、どんな時でもいつも聖霊充満で、御言葉を実践して、神様の栄光のために生きていかなければならないのです。
韓国で、ある牧師の息子が両親のいないある若い青年によって殺される事件が起きました。この殺人を犯した青年は逮捕され刑務所に入れられました。しかし、殺された息子の父親である牧師さんは、我が子を殺してしまったこの青年を赦し、しかもその青年を自分の養子として育てると決断したのです。普通ではとうてい考えられないことなのですが、この牧師さんはそのように決断しました。そして、息子を殺害した青年を我が子のように育て始めました。牧師さんはこの青年をイエス・キリストが十字架にかけられる時に、十字架にかけた人々に対して、『主よ。どうぞ彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのかわからないのです。』と言って彼らを赦して十字架にかけられたように、自分の息子を殺したこの両親のいない青年を赦し、我が子のようにこの青年を育て上げていったのでした。殺した人の父親から赦しを受け、しかもまるで愛する我が子のように育てられていったこの青年は、この牧師である父親のイエス・キリストの大いなる愛に感動し、悔い改めてイエス・キリストを受け入れて、ついに牧師になって韓国の人々に赦しの主、全ての人々への救い主でおられるイエス・キリストを伝えているのです。イエス・キリストの愛は人の人生を180度変えることができるのです。イエス・キリストの愛は、絶望の暗闇の中で生きて来た人に明るい希望の光を照らし、その人の人生を最高に素晴らしい人生へと変化させてくださり、神様の栄光が現れるようになるのです。イエス・キリストは裁き主でありますが、また赦しの愛にあふれたすばらしい救い主であります。全ての人の罪を赦すために十字架にかかって死んでくだり、復活して信じる全ての人に永遠のいのちを与えて下さるイエス・キリストはアガペーの愛に満ちあふれた最高のお方なのであります。私たちは、人生の最後に誰でもイエス・キリストによって裁かれます。しかし、裁き主であり、また赦し主でおられるイエス様ですので、私たちは悔い改めるならば、イエス様の十字架の血潮によって罪がきれいに洗い流され、最後に神様の前に立つことができるのです。聖書はこう言っています。誠にまことに汝らに告ぐ、わが言(ことば)を聞きて我を遣(つかは)し給ひし者を信ずる人は、永遠(とこしえ)の生命(いのち)をもち、かつ審判(さばき)に至らず、死より生命(いのち)に移れるなり。(ヨハネ5:14 文語訳) 私たちの人生のゴールは地上にはありません。私たちの人生の最終的なゴールは永遠の御国、天国であるのです。サッカーのゴールも今はとても気になりますが、私たちは人生のゴールを一番気にしなければいけません。ですから私たちはサッカーの審判のことで命懸けになることよりも、永遠の審判のことで命懸けになる必要があるのです。永遠の天国に入るために、救い主イエス・キリストを信じ、イエス様の前に悔い改めて、いつも思いを尽くし、心を尽くし、力を尽くして神様を愛し、隣人を愛し、神様を喜ばせ、神様を栄光のためにいつも熱く生きていって、人生の最後の審判を完全にクリヤーして、イエス様から永遠の天国行きへの切符を頂くことができますように、永遠の天国の最終ゴールへ向かって絶えず全力で前進していかれるみなさんでありますように主の御名によって切にお祈り申しあげます。アーメン!