神である主が義と賛美とを全ての国の前に芽生えさせる ー イザヤ61:11

愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。 第三ヨハネ 二節

神様の栄光を現す人生

2014年01月26日 11:00
 

 

イザヤ書43:7 わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。

 ハレルヤ!主を賛美いたします。キリスト教思想家・哲学者であるキールケゴールが、人生には三種類、及び三段階の生き方があることを主張しました。その三種類の生き方のひとつは、まず第一段階として、「自分で生きる道を選択して、自分の価値判断により、自分の思いのままに生きる人生」です。この第一段階の生き方は審美的実存段階と呼ばれます。その生き方は世的なものや一時的な欲望を満たすために、また自分の栄光のために生きる人生であります。また、一時的な喜びを追求し、それに満足する人生であります。お金を稼ぐことが第一の目的であったり、高い地位や名誉を確立することが第一の目的であったり、高学歴を築くことが第一であったり、自分の本能からくる欲望を満たすために力を注いで生きていく人生です。この生き方は、一度成功するとそれで満足ができず、次の欲を満たすために走っていきますが、決して満足されることがありません。この生き方は自分の栄光のために生きるので最後にははかない人生となり、何かの失敗や大きな挫折にであったりすると、頼るものがなくなり、人生に自信を失い、つまずき、絶望に至ります。そして、ひどい場合には人生をあきらめ自殺をしてしまったりする危険もあります。決してこの審美的実存段階では本当に満足できる充足した人生を送ることはできないのです。そして、多くの人々がそのことをはっきりわからないにしても悟るのです。

 次の第二段階の人生の生き方は、「自分の良心に従うことを基本として、社会の規範を守りながら生きる人生」であります。この生き方は、自我や自己の欲望を抑えて、人間として理想的に生きようとすることを目指す生き方です。倫理的実存段階と呼ばれます。この生き方に辿ると、自分の良心に従って生きようとして、また社会的秩序を崩すことなく、逆に社会に貢献できてある程度まで満足した充足した人生を送ることができます。多くの人々はこの段階の生き方を目指して生きています。しかし、この段階の生き方を究めてみると、有限である人が自分の価値判断、自分の意思や良心により善なる行動をとりますので、その生き方は普遍的、永遠的に変らない実存を示すことはできません。ですから、完全な生き方にはなりません。人の持つ価値によりその生き方にも大きな差が生じます。この生き方は永遠的な問題の解決は不可能であります。ですから完全に満足できる人生とはなりません。

 そして、第三段階の人生は、「神様を絶対的な真理と信じ、神様を頼りにして生きる人生」であります。これは、宗教的実存段階と呼ばれます。この段階の生き方は、自分自身の力で生きてきた自己を放棄して、永遠に存在する神を絶対的な真理と信じて、神に従順する人生であります。ただ、神に頼り、神の栄光のために生きる人生です。この生き方と第二段階の倫理的実存段階での生き方との違いのよく理解できる例として、アブラハムの生き方をあげることができます。アブラハムは神様から自分の大切なひとり子イサクを全焼のいけにえとして捧げるようにと命令されましたが、このことは倫理的にいくら考えても誰も理解できない、理不尽な要求であります。しかしアブラハムは、神を真実な絶対者として認めて、信仰によって神の命令に従順して結果としてその信仰と行動によって神から祝福されました。また第二段階では、人を愛する時、自分の選択によって人を愛します。しかし第三段階では、神の命令により隣人を愛します。そこには愛する対象の選択がありません。自分の好みの人だけを愛すれば良いのではありません。『隣人を愛せよ。』という神の命令に従い、人々を愛し続けるのです。自分の思いによって気分的に人を愛するのではなく、神様の命令によって必然的に人を愛します。人生はこの第三段階の生き方に辿り着くことによって、本当に真実で価値のある心から幸福感を味わえる最高の人生を生きることができるようになるのです。その生き方は、自分自身が罪人であることを認めて、自我を完全に放棄して、ただ救い主イエス・キリストを信じて、イエス・キリストが十字架で流された罪のない尊い血潮によって、全ての罪を洗い流して、新しい人として生まれ変わって、ただ神様の栄光のために生きることを目的として生きる人生なのであります。この生き方は、自分を罪人であると認めます。自分が完全な人間ではない、罪を持った不完全な存在であることを認めます。しかし、決して絶望したりしません。なぜなら、自分の罪を認め、すべてを神に任せることによって、救い主イエス・キリストがわたしたちの全ての罪、とが、汚れをいっさい十字架の贖いを通してきれいに清算してくださったからであります。第一段階の人生では、自分自身を頼って、自我の欲するままに生きる生き方ですので、決して満足を満たすことができません。そして、最後には自分自身のため、自分の栄光のために生きてきたことのはかなさを悟り絶望に至るのです。しかし、自分を創造され、自分の人生を主管し導いてくださる神様に頼り、すべてを神様の栄光のために生きると決断して生きていく時、わたしたちは人間として最高の価値のある完全に幸せな人生を送ることができるのです。

 イザヤ43:7 わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。旧約聖書のイザヤ書によれば、人は神様の栄光のために創造されたことが記されています。ただ簡単にそのことが記されているのでありません。神様は人間を土から創造されました(בֹּרַאֲ bara)が、人間を神様の形通りに造られ(יֹצֶרְ yatsar)ましたことが創世記に記されています。創世記1:27神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。そして神は人の鼻に命の息を吹きかけて、人は生き物となって完成されたのです。創世記2:7神であるは土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

「いのちの息」の「息」という言葉はヘブライ語で「霊」という意味ももっています。ですから人間は神様から霊を吹き込まれて生き物となり創造が完成されたのであります。ですから、人間にとって神様が本来望まれておられる状態は、霊が健康である時であり、その時に生き生きとした本当の人間の姿が現れるのです。ですから、「霊」は人間にとって大変大切なものなのです。箴言にも人間の霊は主のともし火であると書かれてあります。箴言20:17  人間の(נִשְׁמַ֣ת)は主のともし火、腹の底まで探り出す。ですから私たちは、いつも聖霊に満たされている必要があり、聖霊に満たされている時こそが、神様が望んでおられる本来の人間の姿が現れるのであります。ですから聖霊充満の時に神様の望まれる人になり、人間はその時に神様の栄光を現すことができるのであります。私たちが神様の栄光を現そうと思う時、まず必要なことは聖霊に満たされていることであります。

   私たちはまず、礼拝の中で賛美し、祈り、聖霊で満たされていきます。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません(ヨハネ4:24)神様を礼拝するために私たちは心から聖霊を慕い求めながら礼拝に参加しなければなりません。心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから(マタイ5:3)霊に飢え渇き、霊を慕い求めている人は幸せであるとイエス様もおっしゃっています。イエス様を信じ、霊的になるために飢え渇いている人に天の御国へ行く権利が与えられるのです。私たちはまず、礼拝を通して、神様を賛美し、祈り、聖霊を慕い求めて聖霊充満となり神様の望まれる本来の姿になることができるのです。

 私たちはまた、イエス様の品性を受け継いでイエス様に似るように近づいていくことによって神様の栄光が現れます。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(2コリ3:18) 私たちがイエス様と似ていきながら、イエス様のように行動していきながら神様に栄光をお返ししなければなりません。イエス様の品性を受け継ぐために、私たちはガラテヤ書5:22, 23節にある聖霊の九つの実-愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制-をすべて結ぶようにこれらの品性を慕い求めていかなければなりません。聖霊の九つの実の中心はアガペーの愛であります。アガペーの愛は、ただひたすら与え続ける愛。見返りを期待しない愛。母親から子供への愛のような献身的な愛。自分を捨てても勇気をもって与えてあげる犠牲的な愛です。恋愛や友達への友愛、性的な愛、また政治や社会における義務的な愛などの日本語で示すすべての愛というカテゴリーの中でいちばん最高の愛がアガペーの愛なのです。イエス様の愛こそが神様の愛-アガペーの愛であるのです。私たちはイエス様のアガペーの愛を持つものとなるように、神様に聖霊を慕い求めて、アガペーの愛とその他の八つの実も受け継ぐことができるように祈っていく必要があります。

 そして、イエス様の品性に近づく努力を毎日訓練し続けながら、そのアガペーの愛を実際に実践し神様の国を造り上げていくのです。家庭でアガペーの愛を実践して家庭に神の国を造り。職場でアガペーの愛を実践してイエス様の暖かさを伝え、学校でアガペーの愛を実践して神の国の素晴らしさを伝え、隣り人にアガペーの愛を実践して、神の国を広げながら、神様の栄光を現す人とならなければなりません。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。(マタイ6:33) 私たちがまず初めに求めなければいけないものは、神様の国であります。ですから、聖霊充満となって、アガペーの愛をすべての人々に実践して神様の国を広げていかなければならないのです。平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。(マタイ5:9) 神様の国を求め平和を造る人は神の子供であり、本当に幸せな人となるのです。

 また、私たちは神様からのタレント、賜物を受けてそれを実践しながら神様に栄光をお返しできるのです。ペテロは、イエス様を三度否定して迫害から逃れていましたが、聖霊の賜物を受け、聖霊の力を受けてからのペテロは、以前の臆病なペテロと180度変って、大胆にイエス様の福音をすべての人々に宣べ伝える人になったのでした。聖霊の力を受けたペテロは一日になんと三千人の未信者を改心させることができたのでした。彼は神様から頂いた聖霊の力と知恵の言葉の賜物によって爆発的に伝道することに成功し、神様に大きく栄光を返すことができたのです。みなさん、 “炎のランナー”という映画を見たことがございますか?みなさんも、良く御存知の映画であると思うのですが、この映画に出てくるイギリス人の陸上競技のオリンピック代表選手は、敬虔なキリスト教徒でありまして、安息日は必ず守るよう親から教えられ、子供の時からその教えを守り通していました。そして、この選手が、オリンピックの100m競技の代表選手に選ばれたのですが、それが主日に当たってしまったのです。それで、この敬虔なクリスチャンであるイギリス人の選手は、神様のおきてを断固として従い、主日を守り、このレースを放棄することに決めたのです。そして、そんな選手のことを知った、彼の友だちであるイギリスの代表選手が、彼のために、ある案を出しました。自分はすでにメダルをたくさん取ってしまったので、主日に行われる100m競争の代りに、平日に行われるわたしが出る予定だった400m競争に出してあげてはどうだろうか?とイギリスチームのコミッションに申し上げたのです。そして、それが受けいれられて、この選手は、100m競争の行われる予定の日曜日には教会でいつものように礼拝を捧げ、平日に400m競争に参加できるようになったのです。彼は出場をキャンセルした100m競争の行われた主日、教会の礼拝に参加して牧師の説教の御言葉に熱心に耳を傾けていました。その時の御言葉はイザヤ書40章の御言葉でした。「あなたは知らないのか。聞いていないのか。は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。 しかし、を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ40:2831彼はいつものように教会の礼拝に熱心に参加して切に祈り、その週400m競争に挑みました。そして彼は友人を通して神様が用意してくださった400m競争で見事金メダルを獲得することができたのでした。彼は、「自分の体は、神様が自分が早く走るために造られた」ことを確信し、「自分が全身全力で地を走り抜いている瞬間、神様の栄光を表している瞬間であり、その時たいへん大きな喜びで満たされる!」と言って、神様を証しするのでした。この映画は、主日を熱心に守る敬虔なクリスチャン選手が神様から与えられたタレントを100%用いて神様の栄光を大きく現しイエス様のすばらしさを証するとてもすばらしい映画でした。

 オリンピック競技に参加するチャンスが与えられたのにも、聖日を断固として忠実に守りぬいて、神様に心から礼拝を捧げ、与えられた賜物を十分に発揮して豊かな祝福を受け、神様に栄光を大きくお返しできましたこの主人公のように、どんな仕事、どんなに特別で大切に思える理由があったとしても、主日を忠実に守り、神様を愛し、神様に真実な心で礼拝し、与えられた賜物をフルに活かして、イエス様を証し豊かに祝福されて、神様に栄光を大きくお返しすることのできる、フルゴスペル相模原教会のみなさんでありますように、主イエス・キリストの御名によって祝福してお祈りします。

  そして、私たちは伝道することによって神様に栄光をお返しすることができることがわかります。私たちはできるだけすべての人々に福音を宣べ伝えていくことが神様の一番よろこばれることなのですが、そのための秘訣は聖霊に満たされることです。使徒1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」聖霊充満になる時、私たちは神様の霊的な力を受けて全世界へイエス様を証することができるようになって、神様の栄光を大きく現すことができるようになるのです。使徒の働きにおいて、イエス様の弟子たちはみんな聖霊充満となって、大胆に福音を宣べ伝えて行って多くの人々を主の元に導くことができて神様に大きく栄光をお返ししていったのです。ペンテコステのリバイバルは聖霊の働きによって引き起こされたのです。私たちは日本のリバイバルのために祈り、世界のリバイバルのために祈り続けなければなりません。日本のすべての人々が、世界のすべての人々がイエス様に出会い、悔い改めて、永遠の天国への切符を手にすることができるように私たちは伝道していかなければならないのです。この地球上がアガペーの愛と主の喜びと平和で満ちた素晴らしい神様の国となるビジョンを熱く抱いて、そのために熱心に祈り、御言葉を実践して、できるだけ多くの人々を伝道する使命があるのです。神様が一番喜ばれることはひとりでも多くの人々がイエス様を信じて永遠のいのちを得て救われることです。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。(ルカ15:7) 私たちはこの世のひとりでも多くの人々にイエス様の福音を伝えて主の元に導くことに力を尽くすことが一番重要なことであるのです。伝道のために私たちはまず聖霊充満を求めましょう。聖霊の力と賜物を受けましょう。そして、できるだけすべての人々に御言葉を実践し、アガペーの愛を実践して、神様の国を慕い求めて、祈りながら大胆に世に出て行きましょう。その時、きっとすぐには良い結果が現れなかったとしても、必ずいつかすべてのことを覚えて知っておられる憐れみ深い神様が、みなさんの努力に報い、多くの人々を主の元に導き、神様の栄光が大きく現れますことを主の御名によって信じお祈りいたします。

 以上のように、私たちの人生は自分の栄光のために生きるのではなく、また社会のためだけに生きるのでもなく、神様の栄光のために創造された故に、神様の栄光のために生きることがわたしたち人間の本来の生き方であることを悟りました。いのちの息である霊を吹き込まれて完成された私たちは、絶えず聖霊に満たされている時、本来の私たちであり、神様に栄光をお返しできるのです。ですから、絶えず聖霊充満となりますように、礼拝に毎週必ず参加して、悔い改め、賛美し、祈り、聖霊を慕い求め、霊とまことによって礼拝をして神様に栄光をお返しする私たちになりましょう。イエス様の品性を受け継ぐために、聖霊の実を慕い求め、アガペーの愛を求め、イエス様にだんだんと近づいて生きながら神様に栄光をお返しする私たちになりましょう。御言葉とアガペーの愛を多くの人々に実践し、神様の国を求め、世界の平和を求め、神様の国を造りながら神様に栄光をお返しする私たちになりましょう。また、神様から賜物を慕い求め、与えられた賜物を豊かに用いて、ペテロのように多くの人々に福音を宣べ伝え、大きく神様に栄光をお返しすることのできる私たちになりましょう。そして、絶えず聖霊充満となって、日本のリバイバルのために、世界中のリバイバルのために祈り、伝道し、宣教し、地球上が神の国となり、すべての人々が永遠のいのちを得て天国に行くことができるようにいつも努力して神様を喜ばせ、神様に栄光をお返しすることのできる私たちになりましょう!

 以前の自分の栄光のために生きる生き方を捨てて、これからはただ神様の栄光のために生きる決意をして、新たに人生をスタートされますすべてのみなさんに、また今まで神様をいつも愛し、ただ神様の栄光のために熱心に生きておられるすべてのみなさんに、イエス様がすべての必要を満たし、みなさんの夢とビジョンを叶え、たましいが恵まれているようにすべてに恵まれ健康である祝福を天国に行く時まで絶えず満たされ、一番最高で幸福な人生を導かれますように尊き主イエス・キリストの御名によって切にお祈りしたします。アーメン!