神である主が義と賛美とを全ての国の前に芽生えさせる ー イザヤ61:11

愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。 第三ヨハネ 二節

全ての人のための素晴らしい喜びの知らせ

2013年12月25日 13:00

ルカ2:8~12

8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

 

①いのちのパンであるイエス様

6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

6:48~51 わたしはいのちのパンです。
49 あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。
50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。

イエス様はご自分がいのちのパンであるとおっしゃいました。パンは普通、生きるために食べる食物です。出エジプト記のモーセの時代では、神様が天からマナを降らせて、人々に食べさせました。この食べ物は生きるために与えられたものでした。しかしイエス様は天から下ってきた生けるパンであり、それを食べる人は死ぬことなく永遠に生きるのです。わたしたちの為に十字架に架かってくださり、三日目に死よりよみがえられたイエス様を信じる人は誰でも、罪を悔い改めることによって、全ての罪が赦されて、永遠のいのちを得るようになるのです。ですから、イエス様はこの世のパン-すなわち生きるために食べるパン-ではなく、わたしたちに永遠のいのちを与えてくださる「いのちのパン」なのであります。この世で一番価値のあるパンがイエス様なのです。わたしたちは聖餐式の時に、イエス様の十字架の贖いを覚えて、パンとぶどう酒を摂ります。パンはイエス様の肉であり、ぶどう酒はイエス様の罪のない血です。わたしたちは聖餐式を通して、イエス様がわたしたちの為に死んで下さり、全ての罪を贖ってくださり、永遠の命を与えてくださったことを確信して、パンとぶどう酒を摂ります。イエス様はこの世で生きるために食べるパンとは違い、永遠のいのちを与えて下さるまことのいのちのパンなのであります。

 

②光であるイエス様  

イエス様はまたご自分が光であるとおっしゃいました。

ヨハネ8:12イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

光であるイエス様に従ってわたしたちは信仰生活を歩んでいくならば、決してやみの中を歩んでいくことがなく、いのちの光をもつのです。光であるイエス様に従うわたしたちは、罪の道を歩むことなく、永遠のいのちの光を持ち、この世でイエス様のように世の光として、世の中に善を行い、施しを行い、光を照らし、クリスチャンとして世に光り輝いて神様、イエス様を証ししながら生きていくことができるのです。

 光は、すべてを明るく照らし出します。ですから、イエス様を通してわたしたちの隠れている罪も明らかにされるので、それらのすべての罪を悔い改め、十字架の血潮で罪を洗い清めて、イエス様と同じように、この世の光となって、輝きながら真実の幸せな人生を天国に行く時まで生きることができるのです。

 先日、朝に部屋の窓のブラインドを取り外したとたんに、窓から朝日が差し込んで来て、暖かい光が入ってきて嬉しかったのですが、ふとんをたたんだ後であったために、光を通して小さなほこりが数多く空中に舞い上がったり浮遊しているのが見えたのです。それにしても数多くの小さなほこりが宙に舞い上がっていたために、わたしはとても驚きました。これほど多くのほこりがわたしたちの知らない間に宙に舞い上がったり浮遊しながら漂っているのかと、今までその多さに気づいたことがありませんでした。それを見て、妻が言いました。『イエス様の光もわたしたちの罪を全て照らし出して明らかにするんです。』ちょうどわたしは世の光であるイエス様の説教を考えていた時でしたので、神様がこのような場面を見せて下さり、世の光であるイエス様をわかりやすく説明してくださったのだと悟ったのです。

 ヨハネの福音書の9章には、初めから目が見えずに生まれついた男の人について、弟子たちが『この方が盲目で生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。それともその方の両親ですか。』とイエス様に質問した話があります。するとイエス様は、『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。』とおっしゃいました。そして、『わたしが世にいる間、わたしは世の光です。』と言われ、地面につばきをした泥をその盲人の人の目に塗って彼の目を開かれ、神様の栄光をお現しになったのです。世の光でおられるイエス様は、この世で素晴らしい奇跡を行ってくださり神様の栄光を現されるお方なのです。世の光でおられるイエス様は、この世の暗闇を明るく照らし出し、神様の国を広めてくださる素晴らしいお方なのであります。世の光であるイエス様を見習い、自身も世の光として、今の現実の社会で、職場で、学校で、家庭で、どこにいらしたとしても、この世を明るく照らし善を行い、施し、愛を分け与え、平和を作りだし、神様に栄光をお返しなさるみなさんでありますように主の御名でお祈りします。

 

③門であるイエス様 

ヨハネ10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます

イエス様はご自身が門であるともおっしゃっています。イエス様の門を通って入る人は皆救われます。また、イエス様の門を通って入る人は皆平安に出入りができて、牧草を見つけるのです。ここではわたしたち信者が羊であると比喩していますので、イエス様の門を通って入る人は皆自由に出入りして祝福されて生きて行くことができるということです。

 イエス様の門は誰でも探して入って行かなければならない大切な門であります。世にあってイエス様の門を探し出すのは簡単なことではありません。なかなか探し出しにくいですし、探してからそこに入って行くことも容易でないくらい、イエス様の門は狭いことが聖書に記されています。

マタイ7:13~14 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

いのちに至るイエス様の門は見いだすのがまれであると聖書に書かれてあります。わたしたちクリスチャンは、そんな小さく発見するのがそんなに容易ではないイエス様の門を見つけました。ですからわたしたちは永遠のいのちに至るイエス様の門を知らない人々に伝えて教えてあげる使命を持たなければなりません。この世に、イエス様の門を知らないで、滅びに至る大きな門に入って行こうとしている人々、またすでに滅びに至る門に入ってしまっている人々に、永遠のいのちに至る門であられるイエス様を伝えて、一緒に入って行くように引っ張っていってあげる使命があるのです。イエス様の門は見いだすのが難しい狭き門でありますが、その門は永遠の命に至る素晴らしい門であり、その門は見つけた誰でもが悔い改めによって入ることのできる門なのであります。

 

④良い羊飼いであるイエス様

イエス様は御自分を良い羊飼いであるとおっしゃっています。

ヨハネ10:11わたしは良い羊飼いである。(新共同訳)そしてご自分が良い羊飼いであるとおっしゃられたイエス様は、こう言いました。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。(ヨハネ10:11新共同訳)良い羊飼いは羊のために命をすてると言っておりますように、イエス様は信じる人のために御自分の命を捨ててくださったのです。ヨハネ10:12~14 (新共同訳) 羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――  彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。 わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。羊飼いではなく自分の羊を持たない雇い人は、羊のことには心から気にかけていませんので、狼がやって来たら羊を置き去りにして逃げてしまいます。しかし羊飼いは、自分の羊をいつも気にかけていますので、自分の羊を命をかけて守ってくれます。羊飼いと同じようにイエス様は御自分を信じる全ての人を命を懸けて守ってくださるのです。ですから、イエス様を信じるわたしたちは目には見えなくても、いつもイエス様から見守られているのです。どんな時でもイエス様がいらして下さり、守ってくださいますので、試練や問題や艱難が訪れてきても躊躇したり、心配したりする必要がないのです。イエス様が信じる人のすべての重荷を担ってくださいましたので、イエス様を信じて頼れば、どんな問題にも勝利できるのです。イエス様がわたしたちのすべての試練や問題を解決するために、十字架に架かってくださったのです。そして、十字架の上でと尊い血を流して命を捨ててくださり、復活してくださったおかげで、わたしたちはすべてのことに勝利できるようになったのであります。たましいが恵まれているように,全てに恵まれ、健康である祝福を全ての人が享受できるようになったのです。わたしたちは羊飼いであるイエス様に牧される羊として、絶えずイエス様と共に歩み、イエス様を維持して進み、すべての問題にもイエス様に頼って打ち勝ち、神様の栄光のために生きていかなければならないのです。

 

⑤まことのぶどうの木であるイエス様 

イエス様はご自分がぶどうの木であるとおっしゃいました。わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。(ヨハネ15:1)

イエス様がまことのぶどうの木であり、父なる神様が農夫であるとおっしゃっています。そして、信者であるわたしたちがぶどうの木の枝であるのです。イエス様はおっしゃいました。「わたしにとどまりなさい。」ぶどうの枝は、ぶどうの木にくっついていないと、木からの栄養分や水分がもらえませんので、ぶどうの枝が成長するには、木にくっついていることが成長し実を結ぶ条件であります。同じようにわたしたちクリスチャンも、ぶどうの枝のようにぶどうの木であるイエス様と共に歩まなければ、投げ捨てられて枯れてしまいます。しかしいつもぶどうの木であるイエス様と共に歩んでいくならば、霊的に成長をして大きな実を結んで、神様の栄光を大きく現すことができるようになるのです。 5わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せて集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。(ヨハネ15:5~6) ぶどうの木であるイエス様にとどまって生きることが、多くの実を結ぶ秘訣であります。また、ぶどうの木であるイエス様にとどまっていなければ、木にとどまっていない枝が投げ捨てられ、枯れてしまい、火に投げ込まれて燃えてしまうように、永遠の燃える硫黄の火の池に投げ捨てられてしまうのです。ぶどうの木であるイエス様にわたしたちは絶えずくっついて、イエス様にとどまり信仰生活を送っていくことがわたしたちクリスチャンの基本でありまたそれが使命でもあります。

 

 イエスはご自分について、①いのちのパンであるイエス様、②光であるイエス様、③門であるイエス様、④良い羊飼いであるイエス様、⑤まことのぶどうの木であるイエス様  とおっしゃって、比喩を通してわかり易く説明してくださったのであります。このようなイエス様はわたしたちの道であり、真理であり、いのちであられるのです。イエス様を通してでなければ、誰も神様のふところに帰ることができません。わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)イエス様の聖誕の知らせはまず初めに、野宿をしていた羊飼いたちに天使を通して伝えられました。8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」(ルカ2:8~12)イエス様の聖誕の知らせが最初に羊飼いに伝えられたということは、イエス様が羊飼いのような身分の低い人たちを含むこの世の全ての人々に対する素晴らしく大きな喜びのお知らせであるということであります。ですからイエス様は御自分の存在をわかり易く身近な物を用いて比喩を通して説明してくださいました。いのちのパンであるイエス様。光であるイエス様。門であるイエス様。良い羊飼いであるイエス様。まことのぶどうの木であるイエス様。イエス様は、道であり真理でありいのちであります。イエス様を通してのみ父なる神様のみもとに行くことができるのです。ですから、誰でも罪の悔い改めをして、イエス様の十字架の血潮で罪を洗い流し、この世で地の塩世の光として、神様に栄光をお返ししながら信仰生活を送り、永遠のいのち得て天国で神様、イエス様と共に永遠に生きることができるのです。約二千年ほど前にこの世に聖誕なさったイエス様は貧富の差もなく、名誉があってもなくても、学歴の差にも関係なく、信じる全ての人々の救いのために送られて来たのであります。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)このクリスマスの時期に世でただパーティーしたり楽しんだりすることが目的のクリスマスから脱して、真実のクリスマスの意味を悟られたみなさんは、本当のクリスマスを祝い、神様に栄光を捧げることができて神様が喜んでいらっしゃると思います。このクリスマスの時に、全ての人の救いのためにこの世に送られたイエス様をもう一度心から感謝して、イエス様をあがめ、敬い、信仰を固くして、イエス様と共にたえずたましいが恵まれているように全てに恵まれ健康である信仰生活を送られ、天国に行く時まで神様に大きく栄光をお返しなさる皆さんでありますように主の御名によって切にお祈りいたします。アーメン!