イザヤ4:3 そしてシオンの残りの者、エルサレムの残された者は、聖なる者と呼ばれる。彼らはすべて、エルサレムで命を得る者として書き記されている。(新共同訳)
1. 聖なる者となりなさい
神様は私たちに“聖なる者”となるように命令しておられます。「イスラエル人の
全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたが
たも聖なる者とならなければならない。」(レビ19:2) 私たちの神である主は、聖
なるお方でありますので、私たちも主のように聖なる者とならなければならないと
主がおっしゃっています。聖なる者となることは、キリスト教信仰の基盤となりま
す。なぜなら、イエス様を私たちの救い主であると受け入れた私たちは、過去の罪
を悔い改め、イエス様の血潮を通して聖なる者となることによって、永遠の命を得
るようになるからです。イエス・キリストを信じる人は誰でも、罪の悔い改めを通
して、十字架の血潮ですべての罪が洗い流され清められ、聖なる者となって永遠の
命を得るのです。ですから、罪を悔い改めないで心が汚れたままでいる人は、最後
に神様に審判されて永遠の命を得ることができず、永遠の死が待ち受けているので
す。しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入
れない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。(黙21:
27) 聖なる者であることはクリスチャンにとって、本当に重要で大切なことであ
ります。私たちが神様に見習い、聖なる者となって、永遠の命を頂き、アガペーの
愛や喜びや平安など聖霊の実を結んで、イエス様の愛をもってすべての人々に接し
ていき、神様の国を拡張し、神様に栄光をお返しすることができるのであります。
神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、各
自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のよう
に情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟たちを踏みつけたり、欺いたり
しないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるか
らです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたと
ころです。(1テサロニケ4:3~6) 私たちはいつも自分の心の中を点検して、主の
御心にかなっていないならば、すぐにイエス様に罪を告白し、悔い改めて、イエス
様の血潮を通して、心を再び清くして聖なる者とならなければいけません。そして
シオンの残りの者、エルサレムの残された者は、聖なる者と呼ばれる。彼らはすべ
て、エルサレムで命を得る者として書き記されている。(イザヤ4:3 新共同)、(シ
オンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。みなエル
サレムでいのちの書にしるされた者である。-新改訳) この預言の通り、聖なる
者が命を得る者となるのです。聖なることが、キリスト教信仰において一番重要な
ことなのです。
一般的に、徳が高く、人格が高潔で、生き方において他の人物の模範となるよう
な人物は聖人と呼ばれます。キリスト教徒の聖人も多く存在してきました。聖トマ
ス・アクィナスという聖人は、13世紀にイタリアの貴族の子供として生れましたが、
5歳の時に修道院に入れられ、ナポリ大学を卒業して更にパリ大学で神学を研究し、
パリ大学の教授となりました。彼の最大の業績は、キリスト教思想とアリストテレ
スを中心とした哲学を統合した総合的な体系を構築したことであると言われていま
す。その研究の有名な著物は『神学大全』であり、また、『神の能力について』、
『真理について』、『徳一般について』、『霊魂について』など、大学で行われた
定期的な討論集を出版し、更に、旧約聖書と新約聖書の注解書も執筆しました。彼
の伝記によりますと、若い時に家族の人たちが若い女性たちを連れて来て彼を結婚
させようと誘惑したことがあったのですが、トマス・アクィナスは神に献身する決
心は全く揺るがなかったそうです。
私たちイエス様を信じるクリスチャンは皆、聖徒と呼ばれます。クリスチャンの
象徴は“聖なる民”であることです。しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王であ
る祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中
から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださったかたのすばらしいみわざを、あ
なたがたがたが宣べ伝えるたるためなのです。(1ペテロ2:9) 私たちがイエス様を
信じて聖なる者、聖なる民、聖なる国民となる理由は、過去に暗闇の中で途方にく
れながらさまよっていた私たちを、神様の驚くべき御光-神様の栄光へと導いてく
ださったすばらしい救いの御わざをこの世の多くの人々へ伝えるためなのでありま
す。ハレルヤ!ですから、いつも聖霊充満となって、聖なる国民として、この世の
すべての人々にイエス様を証しして、多くのたましいを救われ神様に栄光をお返し
することのできるみなさんとなられますように主の御名で祝福します。
2. 聖であるとすることは世と区別すること
神様は天地創造の初めに、『光があれ!』と命令してから六日の間にすべての物を
創造なさり、最後に人間を創造なさって、七日目に創造のわざの完成を告げて休まれ、
この七日目のを祝福し ‘聖である’ とされました。すなわち、六日間のすべての創造の
働きから七日目には休まれその日を '聖である' とされたのです。それで、創造のすべ
てが完成されました。
こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。神は第七日目に、なさっていた
わざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれ
た。神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がな
さっていたすべての創造のわざを休まれたからである。(創2:1~3)
この「聖であるとする」ことをヘブライ語では「ケダッシュ」と言いますが、その意味
には物を「区別する」とか「分ける」という意味があります。ですから、「聖であると
する」ことは、「世のものと主のものとを区別する(分ける)」という意味です。私たち
が霊的な分別力を持って、世的なものと神様に属するものとを確かに判断して、区別し
て、いつも神様のものを選択して聖なる者であるように心がけていなければならないの
です。私たちの日常の生活において、絶えず霊的に目覚め、自分が今神様の喜ぶ道を歩
んでいるのか、それとも悪魔、サタンの道に向かって進もうとしているのかを良く判断
して、悪魔、サタンの道に心が傾きかけているのならイエスの御名とイエスの血潮で悪
魔、サタンを追い出し、区別して神様の喜ばれる生活を送って行かなければなりません。
世的なものは肉的なものでもあります。がラテヤ書に肉的なものが書かれています。
肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、
敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類
のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言って
おきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。(ガラ5
:19~21) 反対に神様の喜ばれる、霊的なものの代表が続いて記されています。しかし、
御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このような
ものを禁ずる律法はありません。(ガラ5:22~23) 私たちは世的なものと、神に属する
ものを区別しなければなりません。肉的なものと霊的なものとを区別しなければなりま
せん。そして、神様に属するもの、霊的なものを選択し、たえず聖なる者となり信仰生
活を送ることが大変大切なことなのです。あなたがたが自分の身を聖別するなら、あな
たがたは聖なる者となる。わたしがあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたは、
わたしのおきてを守るなら、それを行うであろう。わたしはあなたがたを聖なる者とす
る。主である。(レビ20:7,8) 私たちは自分の身を清め聖別するならば、私たちは聖な
る者となります。私たちは御言葉を守り、それを実践して行く時、私たちを聖なる者と
してくださる主が私たちを聖であるとしてくださります。
アラムの王の将軍であったナアマンは、勇士でありましたが、ツァラアトと呼ばれる
皮膚病にかかり身が汚れていました。それで、初めは彼の妻に仕えていたひとりの若い
娘の助言を受けて、イスラエルの王のところへうかがい、汚れた身を癒してもらう
ように財産や晴れ着を持って頼みに行ったのですが、王にはそれができませんでした。
それで、そのことを聞いた預言者エリシャが、使いを送ってナアマンを自分のところ
へ呼び寄せ、彼に『ヨルダン川へ行って七回、自分の身を洗い清めなさい。そうすれ
ばあなたの体は元通りになって清くなります。』と指示しました。この指示を受けた
ナアマンは、初めは自分の体の患部に手を当ててくれるのでもなく、ただ川で自分の
身を清めるだけで治るものか、と疑ってヨルダン川に入ろうとはしませんでしたが、
彼のしもべのアドバイスを受けてヨルダン川に七回身を浸して体を清めてみると、彼
の皮膚病で汚れた体が完全に清められ元通りになり、幼子のように体が新しくなった
のです。神様の御言葉に従って生きるならば、私たちは清められ、聖なる信仰生活を
送ることができるのです。真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみこと
ばは真理です。(ヨハネ17:17 ) このように世的なものと、神に属するものとを区別
し、また肉的なものと霊的なものとを区別する力を養って、いつも神様の御心のもの
を選択し、また聖書の御言葉を実行し更に聖められて神様に栄光をお返しすることの
できる皆さんとなられますように、主の御名で祝福します。
3. イエス様の一度の贖いが私たちを聖める
旧約の時代は、人々が罪を犯すと動物をいけにえとして神様に捧げ、動物の血を流すこ
とによって罪が赦されました。しかし、完全なものでない動物の血を通してでは完全に罪
を贖うことはできません。また、人は罪を何度も犯してしまうので、動物のいけにえでは
永遠に罪を赦すことができないのです。それで、神様は御自分のひとり子イエス様をこの
世に送り、罪のない方をいけにえとして捧げることにより、その流された血潮によって私
たちの罪をすべてきれいに洗い清められるようにしてくださいました。私たちはイエス様
がただ一度ささげられたことによって、私たちは聖なる者とされたのです。
このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことに
より、私たちは聖なるものとされているのです。(ヘブル10:10 )
ハレルヤ!私たちはイエス様のたった一度の贖いと流された血潮によって聖なる者とされ、
まことの聖所に入れるようになりました。 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、
イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。(ヘブル10:19)
このように、イエス様のたった一度の贖いとその血潮によって、わたしたちは心と体が洗い
清められたのですから、その完全な信仰により、神様に近づけるようになったのです。その
ようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい
水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。(ヘ
ブル10:22 )
いつもイエス様の前に罪を告白し、悔い改め、流された血潮によって、聖くなり、毎日、心
と体を聖別して聖い人となって完全な信仰によって、聖霊と御言葉で充満となって人々にイ
エス様の愛を実践し、神様に栄光をお返しし神様に近づいて、主の中で祈り求めるすべての
ことに答えを受け、癒され、祝福され、更に神様に大きく栄光をお返しなさるみなさんであ
りますように、主イエス・キリストの御名によって祝福したします。アーメン!