神である主が義と賛美とを全ての国の前に芽生えさせる ー イザヤ61:11

愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。 第三ヨハネ 二節

ローマ書4:19

2015年06月26日 00:10

アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。

私たちは多くの分かれの岐路に立ち悩みます。多くの場合は、自分が知っているありとあらゆるものを総動員させて、行く道を選択するものです。しかし私たちの知識が信仰と衝突する時、クリスチャンたちはあわてふためき、どうしたら良いのか分からなくなります。そして知識に従って、進む道を選択することもあります。信仰の祖先アブラハムも多くの分かれ道に立ちました。しかし、アブラハムは知識と信仰のどちらかを選択する時、知識を捨てて信仰を選択しました。

アブラハムは百歳になり、髪の毛がすべて抜け、目はかすみ腰も曲がり、座る時も静かに座り、立ち上がることも杖に頼らないとできませんでした。それほど敏しょうに駆け走っていた彼は、今や走ることができず、重い物を持って動かすこともできませんでした。自らも年老いたことを感じていました。このようにアブラハムは完全に年老いたお爺さんであることを自ら認めていました。彼の妻もとてもきれいな顔が、今やしわだらけでした。そして、子供が産めなくなり長い年月が経ちました。彼女は九十歳でした。

それにもかかわらず、彼らは知識に頼らないで、神様の御言葉を信じました。本当にアブラハムは目には何の証拠も見えず、耳には何の声も聞こえず、手にはつかまるものがなくても、御言葉にたち信じました。そして、彼は疑いと信仰のうち、疑いを放棄し、断固として信仰による決断を下したのです。ですから、彼らはひとり子イサクをもつことができたのです。そして、夜空に輝く星々よりも多くの子孫をもつことができたのです。

  - 純福音家族新聞(ソウル)