私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。
オプラ・ウィンフリーは、アメリカの女性放送人として十数年間テレビトークショーで一位を固守している『オプラ・ウィンフリーショー』の司会者である。
オプラはアメリカ国内視聴者だけで2,200万人、世界105カ国から放映されるトークショーの女王、雑誌、ケーブルテレビ、インターネットまで連ねるハーポ(Harpo、Oprahの逆読み)株式会社の会長として知られており、黒人最初のVOGUEファッションモデルにもなった。1991年ランニングにより107キロあった体重を2年間で68キロへ減量し話題にもなった。
また2003年に実施されたヘリス世論調査で、彼女は1998年と2000年に続きアメリカ人たちの一番好きなテレビ放送人として選ばれ、経済専門誌フォーブスから黒人女性としては初めての財産10億ドル以上の資産家の中のひとりとして掲載され注目された。
しかし、このようなオプラもさすがに初めから成功の王道を歩んでいたのではなかった。彼女は人種差別主義が甚だしいミシシッピ州の貧しい黒人の子として生まれた。私生児となり、6歳の時まで母の実家で、13歳までお手伝いとして働く母親のもとで、19歳までは別の女性と暮らす父の家で育った。
このような劣悪な環境で育った彼女は、麻薬に陥り、乱れた性生活で未婚の母にもなり、親戚からは性暴力も受け、少女監護院にも出入りするなど、誰が見ても凄まじい過酷な人生を生きてきたのである。しかし、オプラの胸の中には『いつか人々へ、私が何かを成し遂げることができるということを必ず見せたい』という強い希望と熱い情熱が燃えていた。
彼女は自叙伝の中で、次のように神様に対する信仰を彼女の希望の根拠として証しした。
『暴力を受け、虐待され、むち打たれ、拒否される中で、生き残ることができた道は、ただ一つしかありませんでした。私はただ神様に対する信仰ひとつで、このすべての苦難を切り抜けでることができたのです。』 - 純福音家族新聞(ソウル)